トレーニングジムには、毎日のように通った。

 運動なんてしたこともなかった僕だったので、普通だったら3日坊主で終わってしまったと思う。

 でも、このジムには真由美ちゃんがいるのだ。

 それだけで、僕が運動を続ける理由としては十分だった。

 がんばり続けて3ヶ月あまりが経過した。

 さすがに毎日のようにトレーニングしていると、自分の体が変わっていくのが分かった。そりゃあ、身長ががつんと大きくなるわけがない。

 それでも、体の厚みは増し、あれだけ細かった自分の体に、少しは筋肉がついていくのを実感することもできた。

 自宅の鏡の中で裸になり、ボディビルダーのようなポーズをすると、確かにそこには筋肉があって、充実感みたいなものを感じることができた。

 力だって、確実に強くなっている。

 筋トレを始める前だったら、持ち上げることが難しかった荷物を軽々と持ち上げることができるようになっていた。

 成人男性としての腕力。

 そういうものが身についてきたからだろう。何か、自分に対して自信を感じるようにまでなっていた。


「お前、なんか体できくなってね?」


 大学のゼミの終了後、合コン参加者だった男が声をかけてきた。僕は、帰り支度を整えながら、返答した。


「そうかな」

「ああ、なんかごつくなったっていうか。今までもやしみたいに細かったじゃん。どうしたわけ? 太った?」

「別に。ジムに通い始めたからかな」

「え? ジム? お前が?」


 心底驚いたような声をあげる男だった。

 僕はうんざりしてため息をついた。


「そうだよ。あの日の合コンで一緒だった女の子に誘われてね」

「……あ、ああ……そうか」


 それきり、男が話しかけてくることはなかった。

 あの合コンのことは、僕をのぞいた参加者全員にとってタブーとされていて、あの日のことを話題にすることは今までなかったのだ。

 真由美ちゃんに完膚なきまでに敗北したことは、男たちのプライドをえぐり、相当な屈辱感を与えているらしかった。

 それでも、僕は、自分の体が周りの人から見ても変わってきているのだと分かると、嬉しくなった。

 力がついてきている。

 体が変わり、何か万能感のようなものまで感じ始めていた。僕はますます、筋トレにのめり込んでいき、またたく間に数ヶ月が経った。



 *



「はい、じゃあ、今日のトレーニングは終わりね」


 真由美ちゃんが言った。

 ジムの中、最後の機械を終えて、息も絶え絶えとなった僕が返答する。


「あ、ありがとうございました」


 ジムに入会した以降、真由美ちゃんが僕の前でトレーニングをすることはなくなっていた。

 あれは、機械のやり方を教えるためのもので、自分自身のトレーニングは、ジムが終了した後か、開始する前に行うのだそうだ。

 この日も、真由美ちゃんは僕のトレーニングを見て、筋肉に意識を向けるやり方だとかを教えてくれるだけだった。


「それにしても良助、がんばるよね」

「え、なにが」

「いや、毎日ジム通ってるじゃん。なかなか、ここまで真剣に筋トレする人もいないからさ」

「そうかな」

「そうだよ。それに、けっこう筋肉もついてきてるんじゃない?」


 真由美ちゃんに言われて、まんざらでもない僕だった。

 トレーニングの結果、僕は真由美ちゃんがあげていたのと同じ重りで機械をやるまでに成長していた。

 真由美ちゃんと同じ。

 その意識が、どこかで、僕と真由美ちゃんが対等のような思い違いをしていたのだと思う。成人男性が真剣に筋トレをすれば、女の子に負けるわけがない。そんな気持ちが、どこかで生まれていた。


「ねえ、良助」


 真由美ちゃんが言った。

 彼女は、久しく見ることのなかったニンマリとした笑顔を浮かべていた。


「久しぶりに、腕相撲しよっか」



 *



 ジムが終わるまで時間を潰すように真由美ちゃんから言われた。

 僕はドキドキしながら、真由美ちゃんの仕事が終わるのを待った。

 夜10時が過ぎて、ジム利用者がいなくなって、その後30分が経過して、すべての従業員がいなくなった。

 ジムには、僕と真由美ちゃんだけが残された。


「ごめんね。待たせちゃって」

「いや、大丈夫だよ」

「それじゃ、こっちきて」


 ニンマリとした笑顔で真由美ちゃんだ言った。

 ドクンと再び心臓が脈打つ。

 僕たちはジム利用者が休むことのできるラウンジへと向かった。

 自動販売機が置かれていて、二人掛けの簡単なテーブルと椅子が置かれている。

 真由美ちゃんが当然のごとくそこに座って、片手の肘をテーブルについた。

 手をこちらに差し出して、準備万端といった感じだ。

 僕は真由美ちゃんと同じように座り、そして、真由美ちゃんの手を握った。

 その手の柔らかさと暖かさ。

 それよりも何よりも、手を握っただけで分かる、真由美ちゃんの力の強さ。そのアマゾネスの生命力をそのままに、自信満々に笑う真由美ちゃんの魅力はすさまじいものがあった。


「ふふっ、やっぱり逞しくなったね」

「そ、そうかな」

「うん。手を握ったら分かるよ。やっぱり努力は嘘をつかないね」


 真由美ちゃんに誉められると、とても嬉しくなる。

 それと共に、勝ちたいという気持ちが、猛烈に自分の体の底からわき上がるのを感じた。

 勝ちたい。

 真由美ちゃんに勝ちたい。

 対等な立場になって、彼女に認めてもらいたい。そうなれば、真由美ちゃんが僕のことを見直して好意をもってくれるかもしれない。もしかすれば、真由美ちゃんと付き合うことだってできるかもしれない。

 勝ちたい。腕相撲で真由美ちゃんに勝ちたい。

 そんな気持ちが、ふつふつとわき起こってきていた。


「ねえ、良助」


 そんな僕にむかって真由美ちゃんが言った。


「勝負するだけじゃ面白くないから、罰ゲームを決めようよ」

「罰ゲーム?」

「そう。お互い、真剣に勝負できるようにね。間違っても手を抜かないように、負けたほうが絶対に守らなければならないルールを決めるの」


 そうだなあーと、真由美ちゃんは視線を上にやって考え込んだ。

 そして、イタズラを思いついた子供のような表情を浮かべると、言った。


「負けたほうは、服を一枚づつ脱いでいくっていうのはどう?」


 ニンマリとした笑顔。

 ドクンと、僕の心臓が再び脈動した。


「安心して。もうジムの中には誰もいないから、私たち以外には誰もね」


 そう意味深に言う真由美ちゃんに、僕は思わず生唾を飲み込みんだ。

 真由美ちゃんのスタイルの良い、それでいて肉付きのよい体を思わず凝視してしまう。

 トレーニングウェアからも分かるその美しさ。

 うっすらと筋肉が浮かび上がっている腹筋と太ももの力強さは見る者を魅了するのに十分すぎるほどだ。

 これほど鍛えているにも関わらず、その大きな胸は健在で、今もその大きな膨らみが僕の意識から離れることはない。

 僕は、興奮に頭をやられ、無意識に頷いていた。

 頷いてしまった。


「決まりね」


 真由美ちゃんが言った。

 ニンマリとした笑顔が、さらに一段とすごみを増していた。


「それじゃあ、やろっか」


 ぐいっと、真由美ちゃんの手に力がこもる。

 こちらも負けじと力をこめる。

 絶対に勝つ。

 絶対に。

 真剣に覚悟を決めた僕を見て、真由美ちゃんが笑いながら言った。


「レディー、ゴー!」


 最初から全力。

 これまで鍛えてきた成果を振り絞って、全力で真由美ちゃんの腕をテーブルに叩きつけようとする。


「ふんぐうっっぐうううう!」


 歯を食いしばって力をこめる。

 さすがは真由美ちゃんで、鍛え上げた男の僕の全力を受け止め、抵抗してきていた。

 それでも、これまで岩のように感じた真由美ちゃんの存在感はなく、じわじわと、真由美ちゃんの腕をテーブルへと追い込んでいく。

 さらに力を。

 全力で、腕の力だけではなく、体ごと倒すように、真由美ちゃんの腕を追いつめていく。


「ふぐううううううッ!」


 真由美ちゃんに勝つために。

 顔を真っ赤にして。

 全力で。

 真由美ちゃんの腕がテーブルに近づいていく。

 勝利の確信。

 それが芽生えた瞬間だった。


「ふふっ、この程度かー」


 真由美ちゃんの声。

 踊るような軽やかな声色だった。

 僕はビクンと震えて、真由美ちゃんを見上げた。

 そこには、ニンマリとした笑顔を浮かべて、こちらをいたぶる女の子がいた。


「ちょっとはマシになったけど、全然ダメだね」

「あ、ああああ」


 僕は何度目になるか分からない絶望感にかられた。

 その真由美ちゃんの勝ち誇った様子。

 まったくの余裕の表情で僕の全力を受け止めていることからして、すべてを悟ってしまった。


「これで3割くらい」


 真由美ちゃんがぐっと力をこめた。

 すると、さきほどまで優勢だった僕の腕はあっけなく窮地に追い込まれ、じわじわと後退してしまっていいく。

 僕は必死になって、さらに全力で真由美ちゃんの力を受け止めようとする。

 体全体がプルプルと震え、歯を食いしばって、力の限りをこめる。

 しかし、


「アハッ、よわっ」


 真由美ちゃんの嘲笑の声。

 それでも必死に力をこめる。

 真由美ちゃんのニンマリとした笑顔が一段と強くなった。

 そして、


「はい、5割」


 どっすううんん!

 突如として力を増した真由美ちゃんの腕によって、僕はテーブルに叩きつけられた。

 体ごとテーブルのほうへなぎ倒されたようになってしまって、僕は椅子から転げ落ちそうになってしまった。

 片手一本で。

 真由美ちゃんは僕のことなんてどうでもできるのだ。


「負けちゃったね、良助」


 僕の手をけっして離さず、ぐいぐいとテーブルで潰そうと力をこめながら真由美ちゃんが言った。

 ニンマリとした笑顔を浮かべ、心底楽しそうな表情がそこにはあった。


「あんなに筋トレしてがんばったのにね。手も足も出ないで女の子に負けちゃったね」

「う、ううう」

「小学校のときと変わらない。やっぱり弱いね、良助は」


 真由美ちゃんは「ふふっ」と笑って、


「じゃ、脱ごっか」


 脱げと。

 罰ゲームとして服を脱げと。

 同級生の女の子に命じられ、僕はいたたまれなくなりながらも命令どおりにした。

 上着を一枚、脱ぐ。

 女の子に力で負けて、罰ゲームで服を脱がされる。

 少なくとも外見上は対等な立場から、人間の尊厳を守るための衣服がはぎ取られる。その屈辱は相当なものがあった。


「ふふっ、それじゃあ続きね」


 真由美ちゃんが残酷に宣言した。

 彼女が僕に慈悲の心を見せるはずがなかったのだ。


「どんどん行くよー。がんばらないと、全裸になっちゃうから、一生懸命がんばろうねー」


 レクリエーションを楽しむような軽やかさだった。

 自分はまったく安全の位置にいながら、他人をいたぶることのできる絶対的強者。

 真由美ちゃんは堂々とテーブルに肩肘をつき、腕相撲の格好になった。僕はこの後を予測して暗澹たる思いを感じながらも、彼女の手を握った。

 その瞬間、真由美ちゃんと僕との格の違いみたいなものを直感的に感じてしまった。

 ああ、僕はこの人には勝てない。

 この女の子にはどうしたって勝てない。

 生物的に、この人のほうが圧倒的に上だ。

 そのように悟ってしまった。


(続く)